【厳選】おいしそうな?!美しい人物を描く美術画家を9人紹介します!

イエス
この肖像画、すごくおいしそう・・・

こんにちは!AYA(@muda_konpas)です。

西洋の人物画(特に女神や天使)を鑑賞するとき「美味しそうだなぁ」と思ったことありませんか?変態だと思うけどねw

「おいしそう」と思うのは、私だけかと思っていました。しかし、art geek home(オンラインコミュニティ)のラジオで・・・

イエス
いい裸体画&裸体画を出会うと ”おいしそう” と思ってしまう!

と意見が多いのにびっくりしました。おそらく好きな人に「食べちゃいたい」という感覚と近いかな。好きな人を自分のものにしたくて

食べたい美味しそう

と言うように発展している。話していると、好きな人に好きなタイプがあるように ”おいしそう” にも好みがありました。なので、 タイプ別に”おいそうな” 人物を表現する画家を集めました。

 

また、わかりやすく画家の経歴と代表作品もまとめました。

こんな人にオススメ!

  • 美しい西洋の裸体画が好きな人
  • 特に女性や子供でリアルに描いている絵画
  • 肖像画が好きな人

神秘系の美術絵画「ウィリアム・アドルフ・ブグロー」

代表作

「歌を歌う天使達」(1881年頃)

ブグローは、ため息が出てしまうほど・・・透き通る様な絵を描きます。数多くの女性や子供の絵を世に残しました。

「歌を歌う天使達」は、眠っている聖母マリアとキリストに夜曲を奏でる天使達。静かな安らぎを与えてくれます。

リアルに描かれているが、神秘的で非現実。ブグローは、宗教画・肖像画を可憐で懐かしさがある独特な世界観を持ちます。

ブグローは、妻・ネリーを愛していました。よく妻をモデルに描きました。しかし「歌を歌う天使達」を完成する前に妻・ネリーはこの世を去りました。また、妻のあとを追うように、幼い息子も亡くします。

この絵を見ると、亡くなった妻と子を聖母マリアとキリストとして描き、ブグローの慈しみを感じてしまいます。

所蔵先:フォレスト・ローン美術館(アメリカ)

経歴

1825年、フランスに生まれ。1846年にパリで画家として道を歩むために、エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びます。

  • エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に進学。
  • ローマ賞&レジオンドヌール勲章をとる。
  • 毎年、サロンに出品。
  • 美術アカデミーの会員になる。
  • エコール・デ・ボザールの教授になる。

と言った。19世紀にあったフランスの典型的な出世コースとして歩んだ画家です。

20世紀に入ると、印象派やキュリズムなどの台頭によって、アカデミックな絵画は忘れられる存在となりました。しかし、20世紀末にアメリカを中心に美術史の見直しが行われて、ブグローは再評価され、フランスを代表する画家となったのです。

分野:新古典主義

1846年 エコール・デ・ボザール(国立美術学校)に進学。
1850年 ローマ賞を受賞。
1888年 エコール・デ・ボザールの教授
1905年 フランスで死去

正統派の美術絵画「ドミニク・アングル」

代表作

「ド・ブロイ公爵夫人の肖像」(1853年頃)

細かいレースがある華やかな衣装を着られているが、どこか憂鬱そうな女性。陶器のような肌。

肖像画のモデルは、フランスの首相になるアルベール・ド・ブロイの妻ポリーヌ・ド・ブロイです。ポリーヌは、聡明で美しい人だったが、内気な性格で悩みを持っていた。ポリーヌの本質をよく捉えた絵画だ。

アングルの絵画で革新的だったのが、画家として栄華を極めたのに構図を重視したことです。つまり自分の美意識を重視したのです。

例えば、代表作である「グランド・オダリスク」は、当時の人から見ると、体の形がいびつです。当時、デッサンが出来なければ、画家として認められません。つまり、完璧なデッサンを使わない絵は絵でないです。当然「グランド・オダリスク」は不評でした。

しかし、わずかであるが、アングルはデッサンより自分の美意識を重視した。のちに、印象派、キュリズムの画家には大きな影響を及ぼしました。自分の美意識を持っていいだと。

所蔵先:メトロポリタン美術館(アメリカ)

経歴

新古典主義の巨匠・ドミニクアングル。1780年、フランスの南部に生まれ。尊敬する画家はラファエロ。

父は画家、彫刻家、家具職人など幅広く仕事していた。父の背中を見て、アングルは小さい頃から絵画と音楽を学んでいました。

1791年、アングルはトュールズ美術アカデミーという絵画学校に入学。卒業後、有名なナポレオンの絵画を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドに弟子入り。数年後、当時の若手画家にとって名誉な賞・ローマ賞を授与。イタリア赴こうと考えますが、経済・政治的状況からイタリア留学を延期。

1806年、ようやくイタリア留学。留学期間すぎても、フランスに帰らず、約18年間イタリアに滞在します。この時、数々の代表作を作っていきます。

しかし、アングルは…

  • 伝統を重んじる新古典主義・ダヴィッドの後継者として
  • 新しい芸術運動であったロマン主義の対抗として

手のひらを返すようにアングルはフランスに迎えられます。そして、下の図のように…

ロマン主義(新勢力) 新古典主義(古典)
・絵は血が湧き立つようなロマンだ!

・激しいさや動きのある表現

・色彩のドラクロワ

・絵は知的で倫理的なものだ!

・ギリシャ&ローマの美を手本にした表現

・線のアングル

に分けられ、フランスで激しい論争がありました。しかし、周囲によって、ドラクロワとアングルは先導に立たされました。

ともあれ、アングルは国立美術学校長、元老院議員などの画家として栄華極めました。ドワクロワも同様です。しかし、アングル自身は、自分が描きたい絵画と世間の求められる絵画で生涯葛藤し続けました。

分野:新古典主義

1797年 ジャック=ルイ・ダヴィッドに師事する
1797年  ナポレオンの失脚によって、ダヴィッドがフランス国外に追放される
1824年 イタリア留学から帰国。フランスに迎えられる。

ぽっちゃり系の美術絵画「フランソワ・ブーシェ」

代表作

「ポンパドゥール夫人」(1756年頃)

堂々とした女性が座っている。過剰で装飾的な衣装に官能的な表現。ブーシェの表現は、生前から軽薄だと言われていた。

特に「水浴のディアナ」を見ると太った女性がブーチェの好みかな。当時、ふくよかな女性は富の証だったので、太った貴族が多かったとか。

モデルは、宮廷に絶大な力を持っていたポンパドゥール夫人、世界一肖像画が多い女性でもある。ポンパドゥール夫人はルイ15世の妻である。同じフランス王妃であるマリー・アントワネットは「ロココの王妃」とすれば、ポンパドゥール夫人は「ロココの華」と言われてた。

ポンパドゥール夫人のお気に入り画家であったブーシェ。ポンパドゥール夫人によって「ロココ美術」を代表するフランス画家となりました。

驚異的な作品を残したブーチェ。作品数は…

  • 1000点以上の絵画
  • 約200点の版画
  • 陶磁器、舞台デザイン。タピスリー(織物のデザイン)

など、多作家でありました。

所蔵先:アルテ・ピナコテーク(ドイツ)

経歴

1703年フランス生まれ。「ロココの帝王」フランソワ・ブーシェ。父ニコラ・ブーチェは画家&装飾の職人でありました。ブーチェのスタイルは父親の影響かな。

幼い頃、父から絵画を学びました。父の後押しで画家フランソワ・ルモワーヌに弟子入りします。

そして、若いフランス画家の登竜門であるローマ賞を受賞します。しかし、ローマ賞の特典である留学資金は得られず、自己負担でイタリア留学します。

帰国後、ルイ15世の即位で変化が訪れます。当時、フランスは財政難でした。荘厳さのバロック様式より、明るくさせる軽快な美術様式がほしい。

のちにロココが流行ります。ロココはブーチェの絵画にマッチしました。また、陶磁器、建築デザイナーであるブーチェは、多くの注文が殺到します。

1765年、ブーシェはルイ15世に国王の筆頭画家になります。つまり、美術画家として地位と権威を極めました。

しかし、1774年にルイ15世は死去。即位したルイ16世は、装飾を控えた新古典主義を愛用します。もはやロココは時代遅れ。

さらに、フランス革命後、ナポレオンの台頭でブーチェは失墜します。ロココは貴族の象徴として非難されました。しかし、ブーチェは亡くなるまで、ロココ・スタイルを貫きました。

分野:ロココ

1710年頃 のちに国王の筆頭画家になるフランソワ・ルモワーヌに弟子入り。貴族と繋がりを持つ。
1727年 ローマ賞を授与。しかし、アンティン公爵に反対され、イタリア留学の資金を得られず。
1731年 王立絵画彫刻アカデミーの会員になる。
1760年頃 (いとこの息子である)ジャック=ルイ・ダヴィッド筆頭の新古典主義が流行る

キレイ系の美術絵画「アレクサンドル・カバネル」

代表作

「オフィーリア」(1883年頃)

滑らか肌。繊細優美で筆の跡を見せない絵画。カバネルの特徴である表現だ。

おそらくオフィーリアと言ったら、ミレーの作品を思い浮かぶだろう。しかし、カバネルのオリーフィアは詩的で甘美だ。

オリーフィアはシェイクスピアの悲劇「ハムレット」の登場人物である。オリーフィアはハムレット王子の妃候補である。そして悲惨な死を遂げる。

カバネルの特徴的である詩的で官能的に表現されている。最初に紹介したウィリアム・アドルフ・ブグローと同世代の画家。

所蔵先:私蔵

経歴

1823年、フランスに生まれ。画家になるために1840年(17歳)にエコール・デ・ボザール(国立美術学校)で学びます。

  • 1844年、サロンに出品。
  • 1845年(22歳)ローマ賞授与。
  • 1863年、フランス・アカデミーの会員になる。
  • 1863年、エコール・デ・ボザールの教授になる。

と言った。19世紀、フランス画家の典型的なエリートコースを歩んだ。のちにカバネルとブグローがエドワード・マネの作品の出展を拒否した。これが、印象派の火種となる落選展を開催する。つまり、カバネルは最後のフランス・アカデミー画家と言えるだろう。

しかし、ブグローと違う点といえば、現在でも再評価されてなく、多くの代表作が行方不明にある。

分野:新古典主義

1840年 エコール・デ・ボザール(国立美術学校)で絵画を学びます。
1845年 ローマ賞授与。
1863年 フランス・アカデミーの会員になる。
1863年 エコール・デ・ボザールの教授になる。

きらびやか系の美術絵画「エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン」

代表作

「自画像」(1781年頃)

華やかさが舞う美しい女性。過剰と言ってもいいほど「きらびやか」な絵画だ。

とても優雅で美しい肖像画を描いたルイジェ・ルブラン。実際に美しい女性だったと言われています。かなりモテてていたとか。

ヨーロッパの貴族達に人気あった理由は、本物よりより美しく仕上げられてくれたからです。ギャンブル好きな夫と娘を養うためにヨーロッパの貴族に気に入られる必要があったのだろう。

当時、18世紀のフランスでは「女性が男性ヌードを描くのは良くない」と考えられたため、宗教画は描けず、女性画家の多くは肖像画・風景画を描いていきました。

ルイジェ・ルブランも同様でした。大好きな絵で自分が持てる技術と社会で可能なルールのなかで「たくましく」生き抜いてきたのだろう・・・。

経歴

18世紀で有名な女性画家であるルイジェ・ルブランは、フランスのパリで生まれました。

小さい頃が絵が好きで、画家であるルイ・ヴィジェ(父)に絵画教育を受けました。しかし、13歳の頃、大好きな父がなくなり、母と弟を養わないといけなくなり、絵画の技術を吸収していきます。

わずか15歳で画家として生計が立てられました。しかし、絵画だけで家族を養えませんでした。

生活のために15歳で宝石商と結構しますが、ルイジェ・ルブランが稼いだもの取り上げてしまう人でした。

21歳の時、画商であるピエール・ルブランと再婚します。浪費家の夫で苦労しましたが、夫によってフランスの貴族と繋がりができ、画家としての実績を積んでいきました。

特にヴィジェ=ルブランは、フランス王妃・マリー・アントワネットのお気に入り画家でした。ヴィジェ=ルブランの絵画は、ヨーロッパ貴族の売れっ子画家として活躍しました。

しかし、1789年フランス革命によってマリー・アントワネットは拘束。ルイジェ・ルブランはフランスにいられなくなり、数年間、イタリア、オーストリア、ロシアなど転々として暮らしました。

この間に数多くのアカデミーの会員に選ばれます。つまり、ヨーロッパの貴族達に歓迎されるのです。

革命政府が転覆後、1802年にようやくフランスに戻り、1842年に亡くなるまでヨーロッパを周りながら肖像画を描いていきました。

ルイジェ・ルブランの墓標に

Ici, enfin, je repose…”(ここで、ついに、私は休みます…)」

と波乱万丈な人生につぶやいたのでした。

分野:ロココ、新古典主義

1776年 画商であるピエール・ルブランと結婚
1783年 フランスの王立絵画彫刻アカデミーの会員に迎えられる
1789年 フランス王妃が捕まり、フランスから逃亡する
1842年 フランスでなくなる

素朴系の美術絵画「アンゲリカ・カウフマン」

代表作

「自画像」(1770年頃)

表情が乏しい気がするが、知性にあふれ、飾り気のない女性画。当時の記録では「人物の表情の変化がない」「男性なのに女性っぽい体つき」と批判があります。

アンゲリカ・カウフマン。18世紀、エリザベート・ヴィジェ=ルブランと並ぶ最も成功した女性画家です。

めずらしく(女性として)歴史画で成功をおさめました。カウフマンが歴史画を描きたい強い願いがありました。

18世紀、歴史画&神話画には男女の裸体を描くことが多く。女性画家が男性ヌードを描くことを許されなかった。

しかし、アンゲリカ・カウフマンは

  • 数カ国の言語を喋れるほどの知性やマナーもあった
  • 美貌は大変美しかった
  • 男50人で数年かかる仕事を一人でこなせた
  • 著名な文学人、貴族などの幅広い交友関係があった

ので、宮廷画家にならず、独自に歴史画を描きました。

所蔵先:ナショナル・ポートレート・ギャラリー(イギリス)

経歴

1741年、スイスで生まれ。父親の故郷であるオーストリアで育ちます。

父は貴族と繋がりがある装飾画家であり、母親は数カ国の言語を話せて、プロ並みの楽器を奏でることができる人でした。

両親が大好きなカウフマンは、母親のように複数の言語が話せて、チェンバロンが弾ける人になりました。多くの男性にモテました。しかし、仕事好きなカウフマンは見向きもしません。父はよく一緒に旅行したり、仕事をしました。

1754年、父と長期間イタリアで旅行します。この頃から何度、イタリア旅行に行きます。1762年、フィレンツェの絵画学校に入学。

ある時、文豪・ヴィンケルマンと俳優・デヴィット・ギャリックの肖像画を描いたことでイギリスで評判になり、イギリスに拠点を移します。

スウェーデン伯爵と偽った男性と結婚してしまう。けど、イギリス画家・ジョシュア・レイノルズに助けれます。のちにレイノルズとイギリス王立芸術アカデミーの設立に参加。

しかし、1782年、イギリスで歴史画を描くのに限界を感じたカウフマンは、夫・ズッキと共にローマに拠点を移動。この時、文豪・ゲーテと仲が良くなりました。1807年、66歳でローマで永眠。

分野:新古典主義

1762年 フィレンツェの絵画学校に入学。
1767年 スウェーデン伯爵と偽った男性と結婚。のちに破局。
1768年 イギリス王立芸術アカデミーの設立
1781年 イタリア画家・アントニオ・ズッキと再婚

優しい系の美術絵画「メアリー・カサット」

代表作

「白いコートを着たエレン・メアリー」(1896年頃)

「愛しい我が子」「どこかで見たことがある懐かしい光景は・・・」と思ってしまうのは私だけだろうか・・・

まるで、自分の子を見るような錯覚をおこす。でも、慣れない服装を着られ不機嫌そうな子。

家庭的な「母」と「子」をたくさん絵を描いたメアリー・カサット。ベルト・モリゾ、マリー・ブラックモンと並ぶ3大女性印象派画家の一人です。

カサット自身は家庭を持ちませんでした。しかし、母親の影響とカサットの鋭い観察眼で、母と子供の性格、気分を表すような絵を描いていました。

カサットの母親は「知識豊かで社会参加に活発な女性の教育を…!」と願っていたそうです。

絵画に描かれているエレン・メアリーは、カサットにとって姪にあたります。1896年、家族と兄弟がボーフレンヌ(フランス)に訪問したときに、似顔絵を描いたと言われています。

所蔵先:ボストン美術館(アメリカ)

経歴

1844年、アメリカのペンシルベニア州西部に生まれ。休みは家族と海外旅行に行くほど裕福な家庭で育ちました。

アメリカのペンシルバニア美術大学で絵を学びます。しかし、幼い頃、パリで見た絵が忘れなかったことと、デッサンすることを許されなかった地元の大学に不満が募ります。

そして、親の反対を押し切って、友人とフランス・パリに渡ります。

初期の頃、ロマン派の絵画を制作していました。1868年、パリ・サロンに入選します。

だが…普仏戦争でフランスにいられなくなり、アメリカに一時帰国します。アメリカでは1枚も絵が売れずにモヤモヤする日々が続きます。

なんとかヨーロッパの旅費を工面して、再びヨーロッパに渡ります。しかしサロンに落選し続けます。

1877年、エドガー・ドガから印象派の展覧会に招待されました。「ドガは私の人生を変えた」というほど大きな影響を与えます。また「恋人関係ではないか?」と勘違いがおこるほど交流があったそうです。

今までと画風を変え、パステルを多く使い「母」と「子」をテーマにした作品を制作。晩年、人気作家になり、1904年、カサットにレジオンドヌール勲章を贈られました。

また、アメリカでスミス大学、ウェルズリー大学などに女子大を設立。「女性画家」にある差別に疑問をもち、訴え続けました。多くの女性画家はカサットに頼ります。

カサットと友人で女性の参政権を獲得のために活動。晩年、目が見えなくなり、絵画制作をやめても、フェミニズム運動に参加し続けました。

分野:ロマン派→印象派

1861年 ペンシルベニア美術アカデミーで絵の勉強をはじめるが、4年後中退する
1871年 ピッツバーグの大主教から援助を受け、再びフランスへ
1877年 エドワード・ドガと出会う
1941年 絵画制作をやめる

柔らか系の美術絵画「ピエール=オーギュスト・ルノワール」

代表作

ルグラン嬢」(1875年頃)

柔らかな輪郭、若々しい肌の色、優しい表情を見ると美味しそう。印象派画家の中でも飛び抜けている美くしさ。見ているだけで幸せになっちゃう。

モデルの少女はマリー=アデルフィーヌ・ルグラン。子供のあどけなさより、女性としての美しさを表現している。

柔らかい色彩と幸福そうな表情をした少女を描くルノワール。ルノワールは・・・

もし婦人がいなかったら、私は絵を描かなかったかもしれない

というほど、若い女性が好きでした。

好きな絵画は、ルーベンスとブーシェ。晩年、自分の趣味に没頭したルノワール。ルーベンスとブーシェと似ている作品が数多くある。また、暗い絵画を嫌ったとか。

所蔵先:フェラデルフィア美術館(アメリカ)

経歴

1841年、フランス中南部生まれ。家は、貧しい仕立て屋。3歳の頃、パリに引っ越すが、家計が苦しいことに変わりなかった。

小さい頃、ルノワールの美声で知り合いからオペラ座の合唱団に勧められるが、経済問題のため断念する。陶器工場で職人として働きます。この頃、陶器の装飾にブーシェやヴァトーなどのロココに興味を持つ。

ルノワールはパリ国立高等美術学校に入学のため、画塾に通い始めます。画塾で出会ったモネ、シスレーなどの印象派になる画家と出会う。

以降、ロマン派の影響を受けた作品を作って、パリ・サロンに出すが落選と入選を繰り返す。普仏戦争後、モネ、シスレーと共に第一回印象派展に参加。展覧会は酷評されたが、ルノワールの評価はよかった。

印象派展に参加してたが、1876年、パリ・サロンに再び出し「シャルパンティエ夫人とその子どもたち」が好評で人気作家になる。

1885年、20歳年下のアリーヌ・シャリゴに息子・ピエールができる。のちにルノワールはジャリゴと結婚。

印象派もサロンにも評価され、人気画家であったが、関節リウマチを患う。あまり絵が描けなくなった。亡くなるまで、地中海沿岸で療養しながら、自分の趣味が強い絵を描き続けました。

分野:印象派

1862年 画塾・シャルル・グレールで、アルフレッド・シスレー、フレデリック・バジール、クロード・モネにで出会う
1874年 第一回印象派展に参加
1890年 針子だったジャリゴと結婚
1892年 関節リウマチを患い、表舞台から身を引く

古典系の美術絵画「ラファエロ・サンティ」

代表作

「ベルヴェデーレの聖母(牧場の聖母)」(1506年頃)

素朴でふくよかな聖母、ヨハネ、イエスが描かれている「ベルヴェデーレの聖母」

ほぼ同じ大きさ&構図で制作された「美しい女庭師」(所蔵:ルーブル美術館)があるが、「ベルヴェデーレの聖母」の方がおいしそうに見える。そしてロマンチック。

ラファエロは、ミケランジェロ&ダ・ウィンチみたいに革新的な絵画を残さなかったが、模倣が上手で調和がとれた絵画を制作。色使いの達人で数々の聖母絵画を描いてきた。

ラファエロは、女好きで(イケメンの)モテ男。約50人に及ぶ大規模な工房を運営するほどの名経営者であり、権力や名誉に目がなかった。ローマ教皇に認められるためにあらゆる手を使ったとか。

「ベルヴェデーレの聖母」は名門・ハプスブルク家のために描いた絵画。社交的で多くの貴族やお金持ちの繋がりがありました。絵の奥には、欲深い野心家なラファエロが見えてしまう。

所蔵先:美術史美術館(ウィーン)

経歴

レオナルド・ダ・ウィンチ、ミケランジェロと並ぶルネサンス3大巨匠の一人と言われるラファエロ。1483年、イタリア生まれ。

8歳で母・マージが死去。11歳で宮廷画家だった父・ジョバンニ・サンティを亡くし、孤児となった。しかし、父が亡くなっても工房は残っており、養母と幼いラファエロが手伝いをしました。

絵が上手だったラファエロは、ピエトロ・ペルジーノに弟子入り。17歳で独立します。1504年(ラファエロ21歳)にフィレンツェに移り、一時期、レオナルド・ダ・ヴィンチの工房に弟子入り。

1508年(ラファエロ25歳)、教皇ユリウス2世に招かれてローマに移ります。

AYA
異例のスピード出世だぁ・・・

ある時、教皇ユリウス2世からヴァチカン宮殿にある部屋の改修を依頼した。のちに「ラファエロの間」と呼ばれる部屋に代表作「アテネの学堂」を制作します。

版画、建築、フラスコ画を多く制作。時にミケランジェロのシスティーナ礼拝堂に影響を受けて描いたフレスコ画「The Prophet Isaiah」は、ミケランジェロの作品に似すぎて盗作騒ぎが起こったとか。

ラファエロは多くの女性と付き合っていましたが、特に愛人・マルガリータ・ルティは親密でした。1520年、マルガリータ・ルティと過度な関係で発熱。37歳という若さで亡くなります。亡骸はローマのパンテオンで埋葬されます。

*ラファエロは、37歳で死んだと思えないほど、多くの作品が残っています。同時代の画家の中で、現在残っている絵画作品数(油絵&フレスコ画のみ)を比べて見ると・・・

ミケランジェロ 3点 長寿(88歳死去)だったが、彫刻作品でも数十点のみ。3点の絵画で2点は未完成。
ダ・ウィンチ 約20点 完成作品は11点ほど。
ラファエロ 約120点!

分野:ルネサンス

1494年 父が死亡。養母に育てられる。
1500年 ピエトロ・ペルジーノから独立。
1509年 教皇ユリウス2世からヴァチカン宮殿にある部屋の改修を始める
1520年 マルガリータ・ルティと過度な関係で発熱、そして死亡。

 

まとめ:新古典主義の作品が一番おいしそう

いかがでしたか?私はブグロー&ヴィジェ=ルブランが特に美味しそうです。

art geek homeのメンバーの中でも “美味しそう” と思う人物画は千差万別でした。他にも紹介したい画家はいました。しいて、共通していたことは

  • 特にリアルに描かれている女性や子供の人物画が “美味しそう”。
  • 女性の方が “美味しそう” と考える人が多かった。
  • 新古典主義、あたりで活躍した画家達が多かった。
  • 女性が好きな画家が多かった。

という傾向がありました。もちろん、これは art geek home内の意見であって必ずしも同じ意見が出るとは思いません。

「美味しそう」でも人によって基準は違うと思います。また違くていい。そんな、art geek homeの意見をまとめさせてもらいました。

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参考書籍とリンク

・巨匠に教わる絵画の見方 視覚デザイン研究所 編